創作が当たり前になる時代に。━━ロゴデザインリニューアルの考え方【デザイナー原研哉×note加藤貞顕 対談】
note株式会社は、2022年12月21日に東京証券取引所グロース市場へ新規上場しました。それにあたって、ロゴタイプをはじめとしたヴィジュアル・アイデンティ(VI)を刷新。デザインは、日本デザインセンターの原研哉さんにご担当いただきました。
ここでは、日本を代表するグラフィックデザイナーであり、作家としても著作を重ねてきた原研哉さんと、note代表で編集者としてさまざまな作品を手がけてきた加藤貞顕の対談をお届けします。
より器の大きなロゴで、noteとしての意志を見せる
加藤:まず、今回はお引き受けいただき、ありがとうございました。素敵な服を着ると力がみなぎることがありますが、それと似た意味で、デザインしていただいた新しいロゴは、私たちの門出に華を添えてくださっていると感じています。社員もみんなよろこんでいますし、ぼくも本当にうれしくて感謝しております。
原:多くの人に知られたものを直すという仕事は、デザイナーにとって難しいことなんです。だいたい「前のほうがよかった」と言われてしまいますから。でも、上場というみなさんにとって特別なタイミングで依頼していただいたので、僕らとしては重要なプロジェクトだと受け止め、全力で取り組みました。
加藤さん個人の構想から始まったnoteが、社会のインフラのようなものへ変わっていこうとするのであれば、ロゴにしても想いを支えられるような「キャパシティの大きな器」へ作り変えていく好機なのだと捉えて、デザインを考えました。
原研哉さん
デザイナー。日本デザインセンター代表取締役社長。武蔵野美術大学教授。デザインを社会に蓄えられた普遍的な知恵と捉え、コミュニケーションを基軸とした多様なデザイン計画の立案と実践を行っている。2002年より無印良品のアートディレクター。松屋銀座、蔦屋書店、GINZA SIX、MIKIMOTO、ヤマト運輸のVIデザインなど活動の領域は多岐。
加藤:ありがとうございます。今回本当に悩ましかったのは、原さんがおっしゃるように、noteのロゴのような、すでにユーザーのみなさんに定着して受け入れられているものを、どう変えればいいのか、ということなんです。ぼくらとしても、前のほうがよかったと言われるようなことはしたくないわけです。
もともとのロゴは、noteが創作を支えるプラットフォームとして、みなさんの創造性を発揮できる余白を担保して、幅広く使ってもらえるようにと考えてつくったものです。僕自身も愛着を持っていました。
原さんとの最初の打ち合わせでも「いかに変えるべきか」の解答を持っておらず、ぼくは正直に悩みを吐露したような格好になってしまったのを覚えています。そんなぼくに、たくさんの提案を通じて、お答えをいただけたように思っています。
加藤 貞顕
アスキー、ダイヤモンド社に編集者として勤務。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(岩崎夏海)、『ゼロ』(堀江貴文)、『マチネの終わりに』(平野啓一郎)など話題作を多数手がける。2012年、コンテンツ配信サイト cakesをリリース。2014年、メディアプラットフォーム noteをリリース。
原:これまでのnoteのロゴは、より中庸な、より普通な、環境に溶けていく方向で作られていましたね。僕がさらに溶かしていくとなると、ディテールの整理に終わってしまって、あまり変化が感じられないのではないか、とも思いました。
そこで、「ごく普通のものをもっとノーマルにしていく」という考えを残しつつ、エッジを立たせて「アルファベットに見えないほど抽象化する」方向性もあるはずと、両端から作っていきました。抽象化されて記号化していっても、noteの露出量の多さから考えると極まっていってもそんなに嫌じゃないのではないかと思ったのです。自分にとっては、行きつ戻りつで反芻する機会にもなりました。
加藤:そこまで考えてくださったんですね。今回、最初のご提案の段階で、相当な数のアイデアを提示いただきました。その中で、いまおっしゃったこれまでのロゴを超リファインした方向性と、今回採用させていただいた方向性であるエッジを立たせた新しいものの2つが特に目に止まって、実際に、だいぶ悩みました。
なぜ悩んだかというと、原さんは著書で「デザインは水のようにあったほうがいい」といったことをお書きになっていたので。
原:ええ。「水は方円の器に随う」といいますが、みなさんの望みの形に勝手になってしまうのがもっともよいわけです。
僕の仕事は、ひと目で賞賛されるようなものではなく、「どこにデザインがあるのか?」と問われるほど、削ぎ落としてミニマルにしたものが多くあります。しかし、それがデザインにとって重要なのです。デザインは、機能しているときには見えません。とはいえ、削ぎ落としすぎると特徴がなくなってしまう。会社として意志を示すタイミングなのだから、少し引っかかりがあってもいいわけです。まあ、こういう細かいところをデザイナーが説明するのは野暮なんですが。
加藤:ぼくも原さんが下さった案から「覚悟を示しなさい」と言われた気持ちがしたんです。noteだと気づかずに使われているくらいがもっとも望ましいので、ノーマルに近いものの方がよいのではないかと最初は思っていたのですが、ずっと見ていたらこっちかなと。
原:そうですね。かなり幅広くバリエーションを考えて、悩んで作りましたし、これ以上ないところまで詰めきったかなという感じがしますね。
上場のタイミングで出された新聞広告を見ても、加藤さんが書かれた決然としたポジティブなメッセージと相まって、抜けがいい感じのものができたなと思いました。
加藤:ありがとうございます。今回の株式上場は、ぼくたちにとってnoteをより多くの方に知っていただき、社会のインフラのようなサービスになることの決意を表明する機会でした。原さんからのご提案を通じて、サービスそのものも、「いかに変えるべきか」というヒントをいただいたように思っています。
クリエイターの出口を増やし、
みんなが暮らす街にしたい
原:noteは上場後、どういった姿を目指していくのでしょう?
加藤:現在、noteは会員数が585万人(※2022年11月末時点)いて、月間に100万件の記事が投稿されています。すでにとても大勢の方に使っていただいているわけですが、我々のミッションは「だれもが創作をはじめ、続けられるようにする」です。さらに多くの人に、日常的に使われるサービスを目指していきたい。
それが実現できると、創作する人、発信する人、それらを見る人、そして企業や公共機関も加わって、noteという場所は「みんなが暮らす街」のようになると思うのです。
そうなると、クリエイターのみなさんはもっと活躍できるようになります。なにかを発信したら、届けるべき相手にメッセージを届けられるようになるからです。
原:なるほど。海外には類似のサービスはあるのですか?
加藤:今のところ部分的に似たものはあっても、全体が似たものはないですね。コンテンツを販売できるサービスや、サブスクリプション型のメンバーシップはあっても、noteのように、クリエイターの発信物やファンとの関係性のどちらも蓄積して、必要であればビジネスにも転化する——といったように、クリエイターの活動を包括的に支援するものは、見当たりません。
いまぼくたちの生活は、インターネット上に軸足が移りつつあるのではないかと思っています。実際、ぼくは一日の半分以上の時間をネット上ですごしていますし、そういう人はどんどん増えている。でも、そこから創作が盛り上がっていくための、インフラとかエコシステムがない。これこそ、noteが解決すべき課題なのではないかと考えています。
原:noteが創作のインフラとなれれば、まるでメールをやり取りするかのように、創作ももっと日常的なものになっていくのでしょうね。
加藤:原さんも著書で、日常生活にも創作がある、といったことを書かれていましたが、創作ってじつはすごく広い概念ですよね。
一般的には、創作というと、文章とか絵とか作曲とか写真とか、そういうものが浮かびやすいわけですが、実際は、料理やガーデニング、日曜大工だって、立派な創作ですよね。もっと小さな、生活のなかのちょっとした工夫みたいなものだって、人生を前に動かすことがあります。noteは、そういう幅広い創作もふくめて、応援していきたいと思っています。
原:そうですね。仮に『朝顔の成長記録』であっても、花が咲いて実がなったとき、写真や文章を日々添えていくことで自分の中にいったい何が残るのか。つまりは、日常の行為であっても記録することで体験はまったく違っていくわけです。それが創作の根幹かもしれません。書くことで、わかることがあるのです。
加藤:それに関連して言うと、原さんがたくさんの著書を出されているのがなぜなのか、今日は伺いたいと思っていたんです。
原さんはすでにデザイナーとして数え切れないくらいの実績をお持ちですし、それをわざわざ他者にもわかりやすい形で説明したり、本の形に落とし込む必要性があるのかなと不思議に思っていました。これって、どういう動機でやっているのですか?
原:それは、その時々で「結び目」を作っておくということかなと思います。文章にすることで、頭の中でもやもやしている事柄に決着をつけていく、ということがありますよね。そうやって「結び目」を作ると、その時の考えが整理できるという意味があるのではないかと思います。
加藤:ああ、なるほど。書くことでご自身の考えを整理したり、定着させたりしているんですね。
原:それに、結末がわからないままに書いているところもあるんです。たとえば、あるデザインについて成功談を綴ろうしたのに、書き進めるうちに、実はそれが失敗作だったとわかることもある。
ほかのたとえでいうと、僕は麻雀はしないですが、麻雀は最初に配られた牌ではアガりの形は決まりませんよね。手が進んでいくうちに最終形が見えてくる。同じように、頭で漠然と考えていることも、実際に書いてみると整理されてクリアになっていき、最後に「わかる」という瞬間が訪れるのですね。
加藤:そういう試行錯誤を原さんもやっていると伺うと勇気が湧きます(笑)。
可能性のあるところへボールを蹴ると、
仕事が生まれる
加藤:近年では日本各地から選りすぐりのスポットをみずから紹介される「低空飛行」といったプロジェクトでも発信していらっしゃいます。どういった意図から、それらを続けているのでしょうか?
原:「低空飛行」は、だれかに頼まれているわけではない、ごく個人的なプロジェクトなんです。ですから、それほど「発信している」気分は、僕にはないのです。
僕らの仕事は、素晴らしいクライアントが、デザイナーとしての自分の才能を見つけてくれて、素晴らしい注文をしてくれるのを待つ、というものではありません。
サッカーでゴールを決めるためには攻撃が欠かせないように、僕も「このあたりに何かしらの可能性がありそうだ」というところへボールを蹴るようなことを、いつもやっているような気がします。前へボールを蹴っているうちに、ゲームが成り立ってくるのです。そう考えると、みずからやり続けてアクティベーション(活性化)していくことが仕事なんですよね。
加藤:「低空飛行」は個人的なプロジェクトなんですか。
原:はい。僕にとってあの企画は日本列島の基礎研究であって、他人にお見せする部分は副産物。まずは自分のために作っているものです。本としても出していて、サイト内の連載を元に、加筆や再編集しています。それは「何のためにこのようなことをやったのか」について、改めて書き直さないと決着がつかなかったからです。
加藤:「低空飛行」は写真や動画もすごく素敵なんですが、あれも自分で撮影されてるんですよね。動画の編集は人にまかせているんですか?
原:いえ、それも自分でやっています。
加藤:それはすごい。そこまで自分でやっているんですか。
原:写真や動画を撮ることは、対象を自分で咀嚼することです。たとえば素晴らしい写真家にお願いすると、当然もっと素晴らしい写真になると思います。しかしこの場合は、自分の基礎研究ですから、自分が行って自分の目で観察し、編集してみることが大事なんです。
加藤:なるほど。でも、それって本当に創作の原点みたいな話ですよね。創作ってみんなに見てもらうのが前提になりやすいですが、じつはそうじゃなくて、究極、受け手は自分ひとりでもいい。それで考えが整理できたら成功だったりしますよね。
原:そう。たくさん読まれることだけを目指して書くと、「さびしい」じゃないですか。それに、書く人が本気で面白がっているものこそを、みんな読みたいはずですしね。僕らを楽しませようと書いたのだろうとわかるものは、どこか純粋に楽しめなくて。
加藤:さびしい、っておもしろいですね。おっしゃるように、自分が好きでものをつくるのが最初の段階で必要なことで、そこには他人はあまり必要ないかもしれないですね。で、そういう個人的なものが、結果として普遍性を持つときがあると。
「自分」を表現しなくなったからこそ、「らしさ」が宿る
加藤:noteのように幅のひろい人たちに使っていただくプラットフォームは、できるだけ色がない無色に近い状態がいいと思っています。原さんも、デザイナーは透明であるべきとおっしゃる。逆に、普段のデザインの仕事では、ご自身のカラーを出すということはどう考えていらっしゃるんですか?
原:「私」の個性をべったり貼り付けて、いかにも「私がデザインしました」とならないようにするのは難しいものです。それは中途半端に化けた「たぬき」のようなもの。葉っぱに化けたのにしっぽが出ている、なんてことがないように気をつけています。
かつては僕も個性を表現しようと思っていたことはあります。しかしだんだんそういったところから離れて、水みたいなものに接近し始めた時に、初めて「原さんらしいね」と言われるようになってきました。
加藤:なるほど。自分を表現しなくなったからこそ、らしさが宿るんですね。
原:おそらくは自分であろうとすることに、人は反応しないのですよね。たとえば、主人公が「私は、私は」と主張してくる詩は読む気になりにくいもの。「私」が取れたときに、初めてみんなの共感や共鳴が生まれて反応してもらえるのかもしれません。
加藤:原さんのもとには、若く才能あふれるデザイナーも多く所属されているでしょうが、彼らも最初は強く個性が出てしまうものですか?
原:ええ。もっともそれは当然で、若い頃は、自分とははたしてどんな才能であるのかはわかりにくいものです。自分の中に釣り糸を垂らしてみて、「こんな魚が釣れた! これが私の個性か」と確認するための作業は数多くやります。僕も若い頃は、自分を探すために、作品をたくさん作りました。
それは決して老成されていくわけではないし、そういった個性を持ち続けて発揮する仕事は、もちろん大事なのですけれども。ただ、それらを露骨に表に出さないほうが社会では機能しやすいのです。特に今回のnoteのロゴしかり、インフラとして多くを担うような仕事は、そうですね。
創作はリテラシーとなっていく
加藤:今日、原さんのお話をうかがってきて、あらためて創作と生活は密接なんだなと感じたんですが、これを読んだみなさんが、もっと上手にというか、もっと気軽に創作に関わるにはどうしたらいいか、伺ってもいいでしょうか?
原:インターネットにより、僕たちは非常に個的な視点からものごとを編集できる手段を手に入れました。すると、もはや読み書き能力のような基礎的なスキルの中にも、創作と発信が含まれてくると思うんですね。
昔は先生に「本をたくさん読みなさい」と諭されたように、これからは「noteに自分の場所を作りなさい」と勧められるかもしれない。
加藤:それはありがたいです(笑)。
原:メディアと付き合い、情報を受発信して、そこで自分が息をしていくことがリテラシーになっていく。現代は、受信者であり発信者であることが、充実した存在としての有りようになってきているわけですから、その意味でも創作は特別なことではなく、とても重要な活動になってきているのではないでしょうか。
加藤:本当にそう思います。じつは自分から発信すると情報や人は集まってくるんですよね。伝わらなかったとしても、それはそれでそういうことかとわかりますし。
原:そう、人に伝わったり、伝わらなかったりしたことで、かえって自分がわかっていき、血肉と化していく。花壇に種を植えて花を咲かせるのが素敵なように、noteの中で自分の何かが発芽して、見守りながら育むのですね。
加藤:ぼくたちはすでに、ネットのなかで暮らすようになってきていると思うんです。そのなかで日常的に、発信や創作をして、他者と関わって暮らしていく場にしていきたいと思っています。
原:電気や水道と同じような、創作のインフラを加藤さんは作りたいのですね。
加藤:原さんにすっかり説明していただいてしまいましたが(笑)、そうなんです。
原:今回のロゴは、そのためにも、随分と大きな容量のある器を作りました。できるだけたくさんのものが入ってくれるといいな、というふうに思います。
加藤:本当に、背中を押されるというか、パーンッ!と叩いて激励していただいたような気分で、身が引き締まっています。今日はどうも、ありがとうございました。